僕とゆかりと青空と

3話 青空の日

ゆかりから頼まれるままに、俺は3限の時間に合わせて遊歩道のベンチで待つ。
昼食を摂った直後なので、眠い。

「すまない、そこの席を空けてもらえるか?」

「え?ああ、はい。」

凛とした女性の一言に、ついうっかり席を立ってしまった。
でも、待ち合わせ場所がここなので、離れるわけにもいかない。
しばらく、近くで立っていることにした。

10分が経った…。

誰も来る気配がない…。

まさか…?

「君、もしかして待ち合わせしているのか?」

「そうですけど、なにか?」

「君の名前は秋月、というか?」

「そうですが…って、あなたが待ち合わせの相手!?」

驚いた。さっきから気まずくて顔を見ていなかった。
いざ見てみると、かなりの美人だ。

「私はこういう者だ。」

学生証を見せてきた。
名前は『夏目 青空』、同じ1年生だ。

「なつめ…せいくうさん?」

ちょっと前に読んだ漫画で、そんな名前のキャラがいた。
『あおぞら』とそのまま読むのではない気がした。

彼女の顔を見やると、表情が…ない。

「ごめん。名前の読み、間違ってました?」

「ああ、間違いだ。」

彼女は表情一つ変えずに答える。
最初から気分を害してしまった、と思い、申し訳ない気分になった。
でも、それはゆかりに対してなのか、この人に対してのものなのか…。

そんな俺の頭の中などお構いなしに彼女は続けた。

「でも、君は少し違っているな。」

…意味が分からない。

「『じょうくう』だ。以後お見知りおきを!」

「僕は秋月 耀一郎。今後ともよろしく。」

…って、ちょっと待て。
こいつは一体何なんだ?言葉遣いはどことなく特徴的だがそれは横に置こう。
名乗りの時点で、この神経戦みたいなやりとり。
時間が限られているとはいえ、こんなことを続けていると、4限どころではなくなる。

だが、そんな俺にお構いなしに彼女は口を開く。

「とりあえずは合格。」

「え?」

「春田ゆかりから聞いていなかったか?」

「いや…じゃなくて、何を?」

「そうか。では気にしなくていい。」

「いや、気になるだろ!!」

「…そうだな。場所を変えよう。」

「よく考えると話が繋がっていないじゃないか…」

俺の気持ちなどお構いなしに、この夏目 青空なる人物は移動し始める。
このまま反対方向に歩いて教室に行くのもありかな、と頭の中をよぎる。

でも、それはできない。
ゆかりと4限の授業で会うことになるからだ。

着いていった先にあったのは、キャンパスの別館。
本館と少し離れているので、すこぶる不人気の場所だ。

「ここの教室に何か用があるのか?」

俺は尋ねた。
すると、彼女は表情を変えずに答える。

「場所には大した意味はない。だが、適所だ。」

言っている意味が分からない。

「着いた。」

彼女の足を止めた場所は、1階の人気のない最奥の小教室。
いや、坂道の途中に建てられているので、実質半地下。
しかも、心なしか扉が分厚くて、防音バッチリな気が…。

「まさか、ここで秘密の会議とか?」

少し冗談めかして尋ねてみる。

「ほう。勘は悪くないみたいだな。」

「え?」

彼女が少々表情を見せたので、ホッとしたのと同時に、ますます状況が分からなくなる。
促されるままに教室に入った。
…と、すぐさま彼女は扉に鍵をかけた。

「な!?君は何を企んでいる!!?」

「なあに。悪いようにはしないさ。」

言っている意味が分からない。
そんな俺の理解などお構いなしに彼女は続ける。

「まずはお礼を言うよ。」

「え?」

「私の名前の件だ。」

「俺は間違えたはずじゃ…?」

「ああ、間違えてはいたのだけどな。でも、私の最も嫌う呼び名ではなかったのでな。」

話の全容が呑み込めていない俺に、彼女は説明してくれた。

彼女は『あおぞら』と呼ばれることが最も嫌いらしい。
親から付けられたとはいえ、この名前が嫌いであること。
嫌いな読みをする相手はどうしても好きになれないこと。
ゆかりとの縁は、ゆかりが読みを素直に聞いてきたからであること。

「そのお礼だけでこんな教室抑えたの?」

「いや、用件はそれだけではないのだがな…。」

急に彼女の歯切れが悪くなる。

「もう少し付き合ってくれるか?」

俺は時計を見やる。4限までおよそ15分程度の時間しかない。
昼食を取れずにいることはともかく、授業そのものに間に合わないのはまずい。
しかも、ここは別館。歩いて移動は7~8分かかる。走って4~5分か。

「5分で終わらせられるなら。」

「いいだろう。すぐに終わらせる。」

その言葉が終わるのを待たずに彼女は俺に向かって飛びかかってくる。

不敵に笑みを浮かべた彼女に、俺はあっという間に腕を掴まれた。
次の瞬間、俺は組み伏されてしまう。

「っ!!この大学はなんなんだ!?あの魔法使いといい、こいつといい…。」

精一杯の悪態だったが、彼女の興味を誘うには十分だったようだ。

「魔法使い?この期に及んで何を言い出すんだ、君は?」

彼女から質問が飛んだが、自由が得られるわけではない。
それでも、悪態ついでとばかりに俺は応じてやった。

「学生会館に怪しげな黒装束を着た女性がいた。2回ほど見ているが後は知らない。」

「で、なぜそいつが魔法使いだと?」

「妙な薬品をもらったことがある。」

「その薬品は?効能は?」

「自宅にまだある。効果については、言えない。というより、使ってみたほうが早い。それより、この姿勢はいつまで続ける気だ!?」

彼女は、一瞬、目的を忘れていたのだろう。
本題を思い出したのか、よりきつく俺の腕を締めてくる。

「4限に間に合わなくなる!!今日の話はいったん終わりだ!!!離せ!!」

彼女は時計を見やると、あっさりと俺を解放してくれた。

「…次があればな!」

俺は捨て台詞を吐くと、そのまま4限の教室へ向かう。


5分後、走って4限の授業の教室に到着。
ゆかりはすでに座って待っていてくれた。

「ゆかり。…ごめん。力になれなかったみたいだ。」

「そ…か…。」

ゆかりも、いつもの笑顔というわけにはいかなかったようだ。
でも、ゆかりは言葉を続ける。

「うん。わかった。ありがとう。耀くんでも力になれないなら仕方ないよね。」

気休めなのか、想定内の結果だったのか、ゆかりの表情は暗くはなかった…。

4限が終わり、その後、昼の出来事は話題に出ることなく、その日は帰宅となった。


その後は特に夏目 青空の話題も出ることなく、1週間が過ぎた。
しかし、転機は急に訪れる。

「えぇっ!?もう1度会ってあげてほしい!?」

思わず俺は声に出して反芻してしまった。
ゆかりは俺に『彼女ともう1度会ってあげてほしい』と言い出したのだ。

「お願い!今回で最後!!」

「…わかったよ。ゆかりの頼みなら断れないよ。」

いや、本当にゆかりに頼まれると、どうしても断れない。
昔はこうではなかったような気がするのだけど…。

講義が終わり、俺は指定されたお店に入った。
昔の雰囲気を残した喫茶店のようだ。

彼女の姿は…あった。最も奥の最も密談に適しそうなスペースだ。

彼女のいる席に向かう。彼女は気付くなり立ち上がって、深々と頭を下げた。

「先日はすまないことをした。このとおりお詫びをさせていただきたい!」

どことなく特徴的な言葉遣いは相変わらずだが、言っていることが先日とは全然違う。
驚きつつも、先日の繰り返しを警戒は忘れないように心がけ、席に着く。

「1週間前のようなことをされなければ、とりあえずお話は聞くよ。」

「本当にすまない。春田ゆかりを介したとはいえ、こうして会ってもらえるだけでありがたい。」

俺はアメリカンコーヒー、彼女はアイスティーをそれぞれ頼み、本題に入る。

…が、その内容に衝撃を受けた。
その衝撃が大きかったので、思い出すとたしかこうだった…はず。

「私の初めての相手になってほしい。」

「…え?それって、なんの相手?」

彼女は俯いたまま押し黙ってしまった。
そして、重い口を開く。

「セ…、いや、その、あれだ。なんというか…。」

やっぱり…というか、先日の一件といい、わけがわからない。
セまで言っていたけど、その展開はラノベやエロゲーでも滅多にお目にかからない。

「え?あのさ、俺…」

言いかけて口ごもる。ゆかりと俺が付き合っていることはまだ誰も知らない。
いつも一緒にいるが、周囲の認識はあくまで6年越しに再会した幼馴染だ。

「今は君しかいないんだ。嫌悪感を持たずに接することのできる男性は。」

「まったく見えないかもしれないけど、俺には付き合っている人がいる。」

ここで嘘をつくわけにはいかなかった。まして、ゆかりを裏切ることができるはずもない。

「…だろうな。」

「え!?」

意外な反応に虚を突かれた。

「その優しさと言葉の選び方を見れば察しはつく。わかる人には非常に魅力的だ…。」

褒められているようだ。でも、この会話の流れに理解が追いつかない。

「先日は…その…強引にしようとしてすまなかった。」

「え!?あれ…もしかして…?」

彼女は俯きながらうなずく。
俺のことを押し倒して、そのまま行為に及んでしまおうとしていたのだ。

「きちんと合意のうえで…」

「断る!!」

「いや、話だけでも…」

「断る!!絶対にない!!!」

彼女の言葉を遮ってそう言い放つと、俺は席を立つ。
完全に決裂、というか俺が打ち切った形だけど、ゆかりの頼みは果たしたし、内容が内容だ。

「…春田ゆかりの同意があってもか?」

扉に向かおうとした俺は、その言葉に凍り付いた。
どういうことだ?彼女は俺とゆかりの関係を知っている?
いや、その前にゆかりが同意?そんなこと…ありえるのか?

「私が彼女の同意を取ったら…その時は相手してくれるか?」

混乱はしていたが、ゆかりの同意はこれから、ということを理解し、少し落ち着いた。
冷静な判断にはほど遠いが、決着は早く着けたかったから、この申し出はむしろ好都合だ。

「…わかった。だが、君が同意を取るのではなく、彼女にはここに来てもらい、そして3人で決めることにする。」

普通に考えてゆかりが同意するわけがない…そう考えた。
ここまでの言動でこの夏目 青空という人間はなにをするかわからない一面があると俺は判断した。
変な小細工をされるくらいなら、3人でオープンに話してゆかりに不許可を提示してもらおう、そうとも考えた。

「わかったよ。だが、繰り返すが、彼女の同意があった場合は…」

「わかってる。」

俺は夏目 青空の話を遮り、ゆかりを呼び出した。
ゆかりは想定済みだったのか、近くの駅の本屋にいたらしい。

10分ほどしてゆかりが現れた。

「お待たせ。3人で会うのは初めてだね。」

ゆかりはいつもの調子で話しかけてきて、俺の隣の席に座る。
そして、いつもの調子でオーダーする。

「すみません。アイスカフェオレお願いします。」

ほどなくして、アイスカフェオレが来て、本題に入る。

「君に話がある。実は…」

「いや、ここは俺が話すよ。」

俺は最初からゆかりには自分から説明すると決めていた。

「単刀直入に言う。この人は俺とセックスしたいと言っている。俺は最初断ったけど、ゆかりの同意があってもか?と聞いてくるので、ゆかりを呼んでこうして話をすることになった。それが今回の話の流れだ。」

回りくどく言っても事態は進まないだろう。だから、かなり直接的に言った。
ゆかりが怒っても、しばらく口を聞いてくれなくても、仕方ないと思っていた。

「うーん。やっぱり、この流れになっちゃったか…。」

ゆかりはこの流れを予想していたかのような反応だ。言ったこちらが想定外だ。

「仕方ないね。いいよ。」

!!?

俺は最初、ゆかりの言っていることが理解できなった。
いや、頭に入ってこなかった、というべきだろうか。

もう1人は…俺と同じように呆気にとられた顔をしている。

その顔を見て、俺は正気を取り戻す。同時に感情が沸騰するような気分になった。

「正気か?ゆかり!そんなことを君は許すのか!?」

「耀くんは?人を助けてあげられないままでいいの?」

俺の言葉にも冷静に返してくるゆかり。
ますます理解できない。

「っ!!」

俺は次の言葉を継げなかった。
なによりも、大きめの声を上げてしまったことに気づく。

「…ちょっと考える時間がほしい。10分か20分外に出てくる。」

俺は言葉とともに2人を見やる。
夏目 青空はうなずく。ゆかりは…

「わかった。待ってる。」

2人とも少し不安そうなのがわかる。
でも、その不安の原因はおそらく違う。

2人の了承を得たので、俺は店の外に出る。
すぐ近くに小さな公園があったので、そこのベンチに腰掛ける。

「さて…どうするか…。」

口を突いて言葉が出た。
だが、なにか妙案があるわけでもない。

…天気は良い。

「俺は何をしているのだろう…」

独り言を口に含みながら考える。
でもすぐに、内に内に悩む自分に呆れてきた。


最初に見た時から、夏目 青空は美人だと思った。
俺はゆかりという彼女がいるから裏切ることはできない。
でも、そのゆかりは夏目 青空との関係を容認した。
そうすると、今の俺の中のハードルは何だ?

「…3人でしよう。」

口を突いて出た言葉だが、これこそ、最低だろう。

ゆかりに言ったら、口をきいてくれないかもしれない。
夏目 青空に言ったら、また組み伏せられるのがオチだ。

頭の中で話を元に戻す。

でも、ゆかりが承諾するなら…。
いや、ゆかりが承諾するから…?

俺としたいと言っている女性に対し、ゆかりがそれを認めている。
今、引っかかっているのは結局、俺自身だけになる。
いや、俺がそれっぽい理屈をこねているだけで、まさに俺自身が障害だ。

…行きついた結論に、正直呆れた。もう帰りたい。
でも、戻って、やることがある。
俺は店に戻る。

「あ!おかえり!!」

「遅くなってごめん。」

ゆかりはいつもの調子で応じてくれた。
夏目 青空は神妙な面持ちでこちらを見つめている。

「単刀直入に言おう。この話、受ける。」

俺は本当に単刀直入に言った。

「本当!?良かったぁ!!!」

ゆかりは相変わらず明るい調子で応じる。
俺にはこれが大きな違和感となっていた。
ゆかりは昔からここまで価値観が壊れていただろうか…?
そんな俺にもう1人の声が入ってくる。

「…ありがとう。…そしてよろしく。」

そう言うと、夏目 青空は握手を求めてきた。
俺も応じた。
彼女の手は、なぜか不安げで弱々しく感じた。

「ところで、俺は君のことを何て呼べばいいかな?」

口をついて出た言葉は、ここまで頭の中で整理できなかったことだ。

「クーちゃん」

「…却下」

なぜかゆかりが即座に提案、そして即座に却下される。

「なっちゃん」

「却下」

「お嬢ちゃん」

「却下!」

その後もゆかりが候補を次々挙げては、即座に却下されていく。

「もう!かわいい名前を耀くんに呼ばせてあげようと思ったのに。」

「却下だ!!」

…もはや、売れない芸人の漫才にしか見えない。

「…じゃあ、当面は『夏目』で。」

「それが最も無難だな。よろしく、耀一郎。」

向こうは呼び名を勝手に決めてきた。
まあ、いいか。

「ここまで来るのが長かった気もするけど、本題はどうする?」

「…今日、これから…。」

「え!?」

思わず声が出る。

「早いほうが良い。耀一郎もそうだろう?」

たしかに、それは一理あるのだけど…。

「順を追ってとか、ムードとか、そういうことを気にする間柄でもないはずだ。」

「それはそうだけどさ。」

「それでは、場所は私の自宅ということでいいかな?どうせ君は経済的に裕福ではないだろう。」

「嫌なところを突くなあ。」

それはそれとして、たしかに、最短、最安、効率的、という3点を満たす方法ではある。
だが、想定外の方向から思いもよらない言葉が飛んできた。

「私も行っていいかな…?」

俺は、またしてもゆかりが何を言っているか、すぐに理解できなかった。

「なっ!?」
「はあっ!?」

「終わった後で、聞いてほしい話があるの。」

この件が始まってからというもの、やっぱりゆかりは少しおかしい。
でも、放っておくほうが危ない気もしてきたのも事実だ。
仕方ないので、ゆかりも連れていくことにした。

夏目の部屋に着いた。
マンションの1室に彼女は住んでいるようだ。

部屋に入ると、ファミリー向けの間取りで3LDKといったところか。

「夏目、今日は家族は留守なのか?」

さすがに、家族がいる時に堂々とするのは気が引けるので聞いてみた。

「いや、親は父親だけだが、地方の大学に行っている。」

「大学?」

「念のため補足するが、大学教授だ。」

…読まれていた。
それはさておき、いよいよ来てしまった。

「ゆかりはリビングで待っていてくれ。飲食物は好きに使って構わない。」

「わかった。待ってる。」

ゆかりに不安な様子はなく、むしろ、スケジュール通りという雰囲気が感じられる。

「行こう。耀一郎。」

「ああ。」

促されるままに俺は夏目の部屋に入った。
そして、夏目と向き合う。

夏目は深々と頭を下げ、言葉を発する。

「よろしくお願いします…。」

そんな夏目の様子を見て、俺は彼女に歩み寄る。
そして、強めに抱きしめる。

夏目の身体がビクッと跳ねる。